これらは、日本語脚韻の研究の初めのころの作例です。新しい実験詩集はこちらです。 |
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ラップ律二重韻 二重韻(一母音+一音合わせ)は、句末の字脚(じあし)を偶数にした方が響きやすくなると考えられます。一拍子(四分音符一個相当)に二音ずつを乗せるリズムで脚韻の二音が一拍子のまとまりにぴったり収まることによるものです。これは私が日本語ラップ音楽をヒントに提唱した説で、句末の字脚を偶数に揃えた律の総称を「ラップ律」と名付けています。(関連:漢詩七六調訳) |
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拡充二重韻 拡充二重韻(二音合わせ)またはそれ以上の一致ならば、句末の字脚(じあし)が偶数か奇数かにかかわらず韻がわかりやすいと考えられます。しかし、意味の通る長い詩を拡充二重韻以上で揃えるのはかなり困難です。(関連:韻踏み都々逸) |
鉄道唱歌(替え歌) |
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曲:多梅稚 |
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原田昌雄さんから、私のラップ律論に対して「私の“緩急律”から言えば、ラップ律が単調に過ぎるのは明白である」とのご批判をいただいた。そこで、私も自らの成長のために原田さんから学ぶべく、緩急律による詩作を実践してみた。 まず、原田さんがインターネットに公開しておられる十四行詩の一つを引用させていただく。 [かの 鳥の かの 宇宙を 返せ 山火事に ほゝ 染まる 日沒 たましひを 野に こめる 煙突 降りふる 灰の 悲しみの 消せ るなら 瞳よ さゝ きこし召せ けたましく 齒の ゑらぐ 白骨 座に なまめきの 影さへ 保つ ほゝける 國の 神ごとの えせ 思想の あぶく 吹く 若い 蟹 あふ向いて ふと 死相の 空似 星と この 世と 失なへる 婿 毛を むしり 皮 剥ぎとり マリア 心 くり拔く やつ きツと 射あ てる 指の 矢の 光の いづこ] 確かに、字脚を固定するラップ律に比べて、字脚がダイナミックに変動する緩急律には、独特のおもしろさを感じる。 緩急律では、字脚をでたらめに変動させているわけではなく、規則性があるらしい。しかし、変動のさせ方が作品ごとに違うので、私はその規則性を習得できるには至っていない。そこで、とりあえず、引用したこの作品に字脚を一致させて作ってみた。韻の配置も、正統ソネットの「ABBAABBA」でなく「ABBACDDC」という形にしていること以外は同じである。ただし、語の途中で切って押韻するというユニークな方法は、私には真似しがたいので、取り入れていない。 ああ 無常なる 我が世の 定め 叫べども 我 感ず 限界 いと若き 子ら 望み 全壊 努力は 空(むな)し 世直しは 駄目 神よ 仏よ いざ 事問わん 都鳥 鳴く 誉れ 古里 毒 混じりたる 心の 憂さと 穢(けが)れを 洗え 諫早の 湾 空(くう)なる 宇宙 生む 量子から 重力の 性(さが) 妙(たえ)なる 力 やがて 無に 帰し 素粒子も 絶え 罪深き 者 汝は 悪魔 阿弥陀如来の 説く 道は 隈(くま) 我 なおも 待つ 仏の 答え 原田さんの作品との違いは、すべて三重韻(またはそれ以上)になっていることである。 原田さんの作品は、押韻が七音句一つおきであること、韻の場所が離れる抱擁韻が使われていること、なおかつ字脚がダイナミックに変動することから、世間一般の人は韻に気付きにくいと思う(私だけがそう思っているわけではなく、韻律の専門家でない一般の人で、そう証言した人もいる)。しかし、三重韻は、素人の耳に韻を響かせるのに不利な種々の条件をものともせずに確固として響くように感じる(三重韻にまでしなくても、拡充二重韻でもよいと思う)。 私は、「二重韻は偶数字脚で踏んだ方がよい」というラップ律仮説を提唱しているが、それ以外の律を否定しているわけではない。「韻の組のうちどちらかでも奇数字脚になるならば、拡充二重韻以上にするのがよい」という仮説も持っている。緩急律による詩作を通じて、私はそれをますます確信した。 長い詩で拡充二重韻や三重韻を貫くことは、経験的には困難である。まして、二音・三音単位で指定された字脚にぴったり合わせるという条件も課されては至難の業である。しかし、「一般人に意味がわかること」という条件さえ課さなければ造作もないことである。 「緩急律には拡充二重韻や三重韻が似合う」と提案して、原田さんの緩急律の普及のためにエールを贈りたい。 |
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束縛なし二重韻 従来の日本語韻律論では、日本語脚韻は二重韻(一母音+一音合わせ)であればよいとされていました。ここに挙げるのは、ラップ律を考案する前に作った作例であり、句末の字脚(じあし)を偶数にするという束縛を課していません。私は、句末の字脚が奇数であると二重韻でも末尾一音の一致しか聴き取りにくく、響きが十分でないと考えています。 |