中学の時の音楽の教科書に「ローレライ」というドイツ歌曲があり、その日本語詞に「奇(くす)しき禍歌(まがうた)歌うローレライ」(不思議な不吉な歌を歌うローレライ)という一節がありました。そこの「歌う」は「うとー」と歌うように教えられました。古文の朗読でも「うたふ」という歴史的仮名遣いを「うとー」と読みます。いったいなぜ文語調の歌詞や古文の朗読ではそんな読み方をするのでしょうか。
私の疑問は次のようなことでした。「書こう」の歴史的仮名遣いは「かかう」です。古文の朗読でそれを「かこー」と読むのは、歴史的仮名遣いで書かれた古文を現代語の発音で読むという原則によるものであるはずです。ところが、「うたふ」の現代語発音は「うたう」なのに、なぜ「うとー」と読むのでしょうか。これはいつの時代の発音に基づくのでしょうか。
ここで、そもそも歴史的仮名遣いとは何なのかを説明しましょう。高校で古文を習っている人は、「なぜ昔の人はこんなにもややこしくて覚えにくい仮名遣いをしていたのか」と疑問に思っているかもしれません(私もそうでした)。実は、その答えは簡単です。そのように発音されていた時代があったからなのです。
たとえば、「書く」の意思・推量を表す形は、「かかむ」→「かかう」→「かこー」と発音が変化しました。「む」が「う」に変化したのは、現代でも「すみません」が「すいません」に変化しつつあるのと同じく、唇を閉じるm音が欠落するずぼら発音によるものです。さらに「かう」が「こー」になったのは、「アウ」という二連母音がその中間音「オー」に変化するというずぼら発音によるものです。日本語の発音がずぼらな方向に変化してきたのは、
第15回でも述べたとおりです。
ちなみに、フランス語では「au」という綴りを「オ」と発音します(これは、「automatic」など、英語にも影響を与えています)。これも日本語と同様、古代のラテン語の「アウ」という発音がフランスでずぼら発音に変化したものと考えられます。一方、同じラテン系言語であるスペイン語やイタリア語では、「au」という綴りは「アウ」という発音のままです。
「アウ」という二連母音が「オー」に変化した言葉はたくさんあります。現代仮名遣いでオ段の長音を「う」で表すとされているものの多くはそうです。「書かう」→「書こう」、「さたう(砂糖)」→「さとう」などです。現代仮名遣いは、変化してしまった発音に近付けるよう仮名遣いを改革したものです。
現代仮名遣いは、現代語の発音に完全に合わせたものではありません。同じ「かこう」という仮名遣いでも「書こう」と「囲う」では発音が違うことはおわかりでしょう。仮名遣いと発音が一致しているのは「囲う」の方です。「書かう」だったのを発音どおりに「書こお」と書くのでは歴史的仮名遣いからの変更が劇的すぎるので、「書こう」と書くことに決められたのです。
さて、日本語の歴史上、発音がこのように変化してきたからには、「うたふ」が「うたう」になり(これは「ふ」が「う」に変化するずぼら発音によるもの)、その後さらに「うとー」となってもよさそうに思えます。実際、そのように変化しかかった時代はあったそうです。しかし、それは定着しませんでした。
これはなぜかというと、「うたう」が「うとー」となっては、動詞の活用の規則性を乱してしまうからなのです。日本語の動詞の終止形は、例外なくウ段で終わります。ところが、「うたう」を「うとー」と発音すると、その語尾はオ段になります。つまり、古語文法でいうハ行四段活用の動詞だけが動詞の活用規則の例外になってしまうのです。動詞の活用規則が複雑化することは、昔の日本人にとって、発音が楽になるというメリットを上回るデメリットと感じられたのでしょう。だから、「うたう」は「うとー」になりかけたものの、動詞の活用の規則性を維持するために「うたう」に戻り、それが現代まで続いているのです。
結局のところ、文語調の歌詞や古文の朗読で「歌う」を「うとー」と読むのは、かつて日本人が拒絶してしまったずぼら発音を、
なじかはしらねど現代に持ち込んでしまっているもののようです。私は、変だなあと思います。それが古典的で荘重な読み方だと思うのは錯覚なんじゃないかと。
そもそも、なぜ「なでふことのたまふぞ」(なんちゅうことおっしゃるの;「竹取物語」より)を「なじょーことのたもーぞ」と読まなければならないのでしょうか。歴史的仮名遣いのとおりに「なでふことのたまふぞ」、あるいは少し歴史を下った発音で「なでうことのたまうぞ」と読んだっていいんじゃないでしょうか。実際にそう発音されていた時代があったのですから。
高校時代の私には、「なでふ」という綴りと「なじょー」という読みと「なんという」という意味を、なぜそうなのかという説明なしに暗記させられるのは苦痛でした。「なでふ」が「なにといふ」→「なにてふ」→「なんでふ」→「なでふ」と訛ったもの(現代語で「なんという」→「なんちゅう」と訛るのと似たようなもの)であることを理解するには、「なでふ」あるいは「なでう」と読んでいた方が好都合だと思います。また、動詞の活用規則から逸脱する「のたもー」という読みでは、文法的な読解が苦痛になると思います。
歴史的仮名遣いに基づいて昔の発音を再現した読み方を習っていれば、私はさほど古文嫌いにならなかったのではないか、今でこそ言葉の歴史に興味を持っているが、もっと早くそのおもしろさを知ることができたのではないかと思うのです。